オススメの本

今月のブログはオススメの本をご紹介したいと思います。推理小説、エッセイ、歴史小説、マンガに分けて書きます。

 

推理小説

米澤穂信氷菓」角川文庫

京アニのアニメ「氷菓」の原作になった古典部シリーズの1冊目です。殺人事件や誘拐事件ではなく「日常の謎」を扱った青春ミステリーで、ライトノベルのようにスイスイ読むことができます。高校入学から時系列順に短編が並ぶ形になっていて、色々な日常の謎を解きながら高校生活が進んでいきます。古典部シリーズは今のところ6冊の本が出ています。高校生の男女が主人公の小市民シリーズ(5冊既刊)もオススメです。

 

コナン・ドイル(延原謙・訳)「シャーロック・ホームズの冒険新潮文庫

推理小説の王道のホームズものです。短編集の第1作目になります。古くから生き残っているだけあってホームズものは面白いです。19世紀後半のロンドンが舞台なので色々と古めかしいのですが、逆にその雰囲気がとても良いです。携帯電話もパソコンも自動車も無い、手紙と電報と馬車を使う時代です。その分トリックも込み入っていません。長編の第1作目は「緋色の研究」で、この作品でホームズとワトソン君の初対面の様子が描かれています。

 

アガサ・クリスティー(青木久恵・訳)「そして誰もいなくなったクリスティー文庫

ミステリーの女王と呼ばれるアガサ・クリスティーの作品で、タイトルを聞いたことがある方も多いのではないかと思います。タイトルの通り、登場人物が死んでいって最終的には全員いなくなってしまいます。読む前は「容疑者も含めて全員死ぬなんてどこかに無理な部分があるんじゃないか」と思っていたのですが、実際に読んでみると感動するくらいすごい作品でした。他にも、有名な「オリエント急行の殺人」や名探偵ポアロの短編集「ポアロ登場」もオススメです。

 

【エッセイ】

三谷幸喜「オンリー・ミー ー私だけを」幻冬舎文庫

三谷幸喜本人のイメージそのままのエッセイで、本人のことが嫌いでなければかなり笑えると思います。逆に、三谷幸喜のことが嫌いな人が読んだらストレスが溜まるかも...という感じもします。1993年に単行本が出た作品なので話題はかなり古いです。

 

東野圭吾「あの頃ぼくらはアホでした」集英社文庫

東野圭吾の中学生後半〜大学生までのエピソードが描かれているエッセイ本です。昭和の大阪の学生の生活がそのまま面白おかしく書かれています。不良の同級生や思春期や勉強に振り回されているところが面白いです。普通の学生生活とも言える内容を面白く書いているところに文章の上手さを感じます。

 

阿佐ヶ谷姉妹阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし」幻冬舎文庫

阿佐ヶ谷姉妹のエッセイ本で、お姉さん(エリコさん)とミホさんが交互に文章を書いています。2人が書いた短編小説もそれぞれ1編ずつ入っています。6畳一間に同居する2人が時に小競り合いを起こしながら生活する様子が面白いです。2人の生活がお姉さんとミホさん両方の視点から見られるのも面白ポイントです。

 

森毅「数学受験術指南」中公文庫

京都大学の数学教授だった森毅さんが1981年に中公新書から出された本で、現在は中公文庫の方で販売されています。純粋なエッセイではないのですが、受験の気構えや採点者の気持ち、森さん自身の受験体験などが分かりやすく面白おかしく書かれています。タイトルから抱くイメージとは違って気楽に読める本です。大分古い本なので今とは違う部分もあると思いますが、大学教員って入試の採点にここまで注力されているのかと驚きました。大学受験の前に読みたかったと思った1冊です。

 

歴史小説

歴史小説については以前ブログで書いていたので、以下の記事をご覧ください。

bechi0226.hatenablog.com

 

【マンガ】

藤子不二雄Aまんが道」中公文庫コミックス版(全14巻)

藤子不二雄Aさんが、藤子F不二雄さんと出会った小学生時代からトキワ荘に住んで2年くらい経つ頃までを描かれた自伝的マンガです。トキワ荘の光の部分を描いたマンガとも言われ、朗らかにマンガに打ち込む様子が見られます。もちろん締め切りなどのマンガ家にまつわる苦労もたくさん出てきますが、2人で、時に仲間と力を合わせて困難を乗り越えていきます。続編として「愛…しりそめし頃に…」というマンガもあって、こちらは青春色が増していて恋愛の描写も強いです。

 

なもり「ゆるゆり一迅社(21巻まで既刊)

アニメ化もされている人気のある百合マンガで、かわいい女の子がたくさん出てきてソフトな百合が楽しめます。でも百合マンガというよりもギャグマンガと言った方がイメージに近いです。単行本を1冊読む間に何度も吹き出してしまう、今まで読んだ中で一番面白いマンガだと感じる作品です。

 

魚豊「チ。-地球の運動について-」小学館(第7集まで既刊、6月30日発売の第8集で完結予定)

天動説を信じることを強制するC教という宗教と、地動説を唱えて異端者扱いをされ迫害される人たちを描いた作品です。実際の歴史を基にしていますが、登場人物は架空の人物です。真理を追究しようとする異端者側の情熱が熱いです。作者の魚豊さんが「魂のあるマンガを描きたい」とおっしゃっていたのですが、正に魂のあるマンガです。僕は宇宙物理学を研究していたので、命懸けで真理を追究する姿に「物理学をやっていてよかった」「物理学をもっとやりたい」と心が燃え上がります。そして登場人物の情熱にとても心を揺り動かされます。

 

お気に入りの本をいくつかご紹介してみました。もし興味がわいた作品がありましたら、本屋さんやAmazonなどで立ち読みしてみて、お気に召しましたら買ってみてください。

 

最後に全然関係の無い話なのですが、以前に新型コロナのワクチン接種をしたときのことをブログに書いていましたので、3回目のワクチン接種のことを軽く書いておこうと思います。今月の3日にモデルナ製のワクチンの接種をしました。1回目と2回目はファイザーでした。すべて地元の自治体がやっているワクチン接種です。翌日から身体中が痛くなりましたが、痛みを感じ始めたときからロキソニンを飲んだので結構楽に過ごせました。発熱も36.9℃が最高で、大したことはありませんでした。薬に助けてもらって乗り越えるのがいいなと思いました。ご参考までに。

絶版が怖い

最近、本をたくさん買っています。ほとんどが物理に関する本です。本棚の積み本コーナーにはあふれるほどの本があるのですが、本屋さんに買いに行ったり、他店舗の在庫の取り寄せをお願いしたり、Amazonで買ったりとせっせと購入しています。理由はタイトルの通り、絶版が怖いからです。

 

買っている物理の本は主に物理学の歴史について書かれている本です。相対性理論量子力学の間の矛盾から超ひも理論の現状までを書いた本や、統計力学の成り立ちを書いた本などです。歴史の本の他にも相対性理論で勘違いしやすいところを集めた本なんかもあります。こういう本はあまり有名でない出版社から出ていることが多いです。なので、物理界隈で名著だと思われていても有名出版社から出ている普通の本の名著よりも増刷されることが少なく、絶版になりやすいです(教科書は増刷されたり新装版が出たりしますが)。そこそこ売れたらもうたくさんは売れないので増刷するときのリスクが高まり、何度も増刷する余裕がない出版社は次の本へと舵を切るからです。

 

本屋さんやAmazonの在庫をチェックしていて、在庫がなくなりそうなのを見かけると不安になります。この本は是非とも読みたいけど、読む時間ができたときに売っているのだろうかという気持ちがわいてきます。上記の統計力学の本は初版本があっという間に売り切れてすぐさま在庫なしになり転売ヤーが発生したので、積み本の山ができているのに在庫が復活したときに買ってしまいました。山本貴光さんの「気になったときに買っておかないと入手しそびれる」という言葉を思い出しました(※)。物理の本はそれほど売れる本ではないので価格が高いのが結構キツイです。どうしても読みたいものは確保できたのでよかったです。

 

ただ、本を買っていてありがたいなと思うのは、日本人の物理学者やサイエンスライターが書いた本や海外の本の翻訳本がたくさん出ていることです。翻訳本には新旧の有名な物理学者の本もあります。アインシュタインハイゼンベルク、ホーキングなどです。世間ではマイナーとされている分野の本を母国語で読めるということはとても幸せなことです。これは物理の教科書も同じです。これからも財布としっかり相談しつつ、読みたい本を買って出版社にお金を落とそうと思います。

 

山本貴光さんは何万冊もの蔵書を持っていて、今も本を集め続けている方です。山本さんと同居人の橋本麻里さんについて以下のブログを書いたことがあります。

bechi0226.hatenablog.com

しないではいられないことをし続けなさい

タイトルはマンガ家の水木しげるさんの言葉です。水木しげるさんは妖怪とマンガが好きでたまらなくて作品を執筆していたことが窺える言葉です。妖怪は子どもの頃に世話してくれていたのんのんばあという方にたくさん話を聞かせてもらって好きになったそうです。そして絵が描くのが好きで画家を目指していて、第二次世界大戦後にパプワニューギニアから日本に戻ってからマンガの執筆を始めました。妖怪も絵を描くことも、どちらも水木しげるさんが子どもの頃から好きなことでした。

 

手塚治虫はマンガを描くことはけしからんことだと思われていた戦時中、軍需工場で働いているときに教官の目を盗んでマンガを執筆していたそうです。生涯ずっとマンガを描いていて、病床でも描こうとしていたそうです。最期の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」というものだったと言われています。描いた原稿は約15万枚と推定されていて、1冊200ページで単行本にすると約750冊になります。膨大な数です。短い睡眠時間でマンガの執筆に取り組んでいました(アニメ制作もしていました)。

 

宮崎駿は絵コンテを切りつつ、すべての原画のチェックをしながら映画を作っていきます。普通、監督は原画のチェックはしないのですが、宮崎駿はアニメーターとしての腕がすごくて原画にも目を通しているそうです。しかもチェックだけでなくて自分で描き直す場合もあります。相当な仕事量のためナウシカを作った後に「もう映画は作らない。やめよう」と思ったとドキュメンタリーで語っていましたが、映画を作っていない時期が続くとまた作りたくなってきて制作に入るそうです。何度も引退宣言をして撤回していますが、「つらくてやめようと思う気持ちは本物だけど、また作りたくなってしまう」というのが本当のところだと思います。

 

スポーツの世界では練習に明け暮れる選手がいます。オフシーズンはシーズン中に溜まった疲労を癒す期間ですが、オフシーズンでも練習に専念したり国の代表として試合に出たりする選手がいます。シーズン中もチーム練習だけでなく個人練習に励む選手がいます。身体を動かすことの他に、映像を見て自分や対戦相手のプレイについて研究します。練習量が多すぎて身体に負担がかかると怪我の心配があるので、チームの方から練習をするなと止められる選手もときどきいます。

 

以上の人たちは、しないではいられないことをし続けている人たちだと思います。しないではいられないことを自分の仕事にして常に全力で取り組み続けている人たちです。手塚治虫の軍需工場のエピソードなんかは「やめろと言われてもやってしまう」というほどの情熱です。そのパワーで進み続けたからこそ、それぞれの分野でトップクラスの仕事をしたのだと思います。もちろん好きなことであっても仕事にするとつらいことが多々あります。自分の好きなようにはできない場面がたくさん出てきます。それでも、しないではいられないくらい熱中できることをずっと続けられることは幸せなことじゃないかなと思います。

 

今までに書いた人たちは、しないではいられないことを仕事にした人たちですが、仕事である必要はないと思います。趣味でも何か熱中できることがあることはとても幸せなことだと思います。何年もかけて何かを作ったり、世界のあちこちに旅行に行ったり、学問などを学んで研究したり、スポーツに打ち込んだり、ゲームをやり続けたり、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり演奏したり、ライブやイベントに行ったり、コンカフェに通ったり、電車に乗ったり、世の中には様々な熱中できることがあります。好きなことに熱中するのはメンタルにも良いと思います。ストレス発散にもなりますし、考えなくてもいいことを考える時間が減ります。さらに「○○がしたい!」というパワーがわいてきます。その気持ちに従って趣味に打ち込むと満足感が得られます。しないではいられないくらいしたいことがあることは人生をとても充実したものにすると思います。

 

僕のしないではいられないことは、今までの経験から考えると物理かなと思います。高校、大学、大学院と物理を学び、研究して、最後の方の論文を書いていた時期くらいからは物理のことを考え出すとずっと考えていることがあります。大学院を出てからもそうです。物理のことを考えているときは、難しくて訳が分からないという気持ちになることもありますが、確かに幸せな気持ちになっていると思います。このブログを読んでくださっている方々も遠慮せず自分の好きなことに熱中してください。

BiSHはいいぞおじさん「BiSHはいいぞ」

昨年の12月24日にBiSHというグループが2023年に解散することを発表しました。「楽器を持たないパンクバンド」というキャッチフレーズのアイドルグループです。メンバーはアイナ・ジ・エンド、セントチヒロ・チッチ、モモコグミカンパニー、ハシヤスメ・アツコ、リンリン、アユニ・Dの6人です。2015年3月結成、2016年5月メジャーデビューで、何人かの入れ替えを経て、今の6人になっています。

 

解散報道を見たときは名前しか知りませんでした。AKB系や坂道系のようなJ-Popのアイドル、もしくはK-Popのアイドルかなと思っていました。どんなグループか気になったので、YouTubeでMVを見ることにしました。再生回数が多いものを見ようと思って「オーケストラ」という曲のMVを見ました。


www.youtube.com

衝撃を受けました。僕の好みにめちゃめちゃ合っていたんです。アイドルと聞いたときに頭に思い浮かべる曲調ではなく、パンク調・ロック調のバンド音楽でした。曲を聴いているだけだとボーカルが6人いるバンドグループという感じがします。「オーケストラ」は何回も聴いて、他の曲もいくつか聴きました。公式チャンネルにたくさんのMVやライブ映像がアップロードされていて幸いでした。ライブは生歌で、心を動かされる全力の歌声で6人が歌っています。

 

すっかりハマってTwitterInstagramのアカウントをフォローしました。そして、まずはベストアルバムをゲットしようと動き始めました。BiSHのベストアルバムは2020年7月8日に発売されたのですが、CDショップの支援を目的としているため配信はありません(収益の全額寄付という形でライブハウスの支援も含まれています)。タワレコで買おうとしてオンラインショップを見ると在庫なし。実店舗で買うしかなく、近くの店舗で在庫がある店舗から取り寄せてもらってゲットしました。それからいつも聴いているのですが、期待通りめっちゃ良い曲ばかりでした。ハマるきっかけが解散報道だったのが悲しいですが、BiSHのことが知れて良かったです。他のアルバムやライブのBlu-rayもゲットしたいです。

 

BiSHの中ではモモコグミカンパニーさんが1番好きです。めっちゃかわいいです。そして背が小さいです。メンバーの中で1番多く作詞をしていて、さらにエッセイや小説を書いています。個人のHPもあって、そこでも文章を書いています。文章を書くことが好きなんだそうです。インスタライブを見たことがあるのですが、とても謙虚で優しい方でした。でも、とんでもない下ネタ発言をしたり人の話を聞いていなかったりと変な人でもあります。

 

他にも、メガネ美人でスタイル抜群なのに中身は小学5年生と言われているハシヤスメ・アツコさんや、名前が覚えやすく声がかわいくて見ていると何故かいつも気になってしまうリンリンが特に好きです。ハシヤスメさんは「いつも明るく盛り上げるぜー」という気持ちを持った面白い人で、僕の好きなタイプの女性です。気遣いのあるツイートをよく見かけます。リンリンは無口担当でしゃべることは少ないですが、自分の中にしっかりと自分の気持ちを持っている人です。リンリンが叫ぶように歌っているのを見ると涙が出そうになります。リンリン作詞の「beautifulさ」は名曲です。メンバー全員の衣装をデザインしたことがあって、どれもとても似合っていたのでファッションセンスにあふれているなと思いました。

 

上の方に貼った「オーケストラ」のMVが良いと思った方やBiSHのことが気になった方は、YouTubeの公式チャンネルでMVやライブ映像を見てみてください。

素人が考える豊臣家滅亡 〜どこで力関係が逆転したのか〜

隆慶一郎さんの歴史小説影武者徳川家康」の大坂夏の陣の部分を読んでいるときに「どうして豊臣家は滅亡したんだろう?」「どこで豊臣家と徳川家の力が逆転したんだろう?」と思いました。そしてそれを自分なりに考えてみました。予防線になるのですが、僕は高校の日本史の授業を受けたことすら無いのでしっかりとした基礎知識は持っていません。すべて本やネットで得た知識に基づいて書いています。「その話は史実と認定されてないよ」という箇所があるかもしれません。また、以下での「豊臣家の力」と「徳川家の力」は一方に味方する他の大名の力も加味したものになります。

 

初めに、豊臣秀吉が生きている間は豊臣家の力は徳川家よりも上なので、豊臣秀吉が亡くなったときからの主な出来事を列挙します。

 1598年  豊臣秀吉の死去

 1599年  前田利家の死去

 1600年  関ヶ原の戦い

 1600年〜 関ヶ原の戦いに関する論功行賞と処罰

 1603年  徳川家康征夷大将軍就任

 1603年〜 江戸城駿府城名古屋城などの城普請

 1605年  徳川秀忠征夷大将軍就任

 1615年  大坂冬の陣

 1616年  大坂夏の陣・豊臣家滅亡

最後の2つ、大坂冬の陣・夏の陣から見ますと、この時点では豊臣家を救うために戦おうという大名は皆無でした。この頃には徳川家の力は明らかに豊臣家よりも勝っています。豊臣家はたくさんの浪人を集めて単独で戦い、敗れました。

 

次に、どうして諸大名は豊臣家に味方しなかったのかを考えます。豊臣秀吉が生きていたときは諸大名は豊臣家に従っていて、その関係が続いていれば徳川家が豊臣家を倒すことはかなり困難です。なので、徳川家は豊臣家と諸大名の関係を引き離して、かつ徳川家の力を増大させようとします。関ヶ原の戦いの後の論功行賞と処罰は豊臣家の家臣の筆頭で勝利した徳川家康とその家臣、つまり、徳川家が主導して行われました。敗れた西軍に属する大名の領地を取り上げて、勝利した東軍に属する大名に分け与えたのですが、このときに徳川家にとっては敵になり得る外様大名は大幅に加増しつつ大坂から離れた場所に移動させました。主に中国地方や九州地方、北陸地方です。そして、監視役として徳川家譜代の大名を外様大名の近くに配置し、また東海道を中心に要所を家康の息子や譜代の大名で埋めました。さらに、徳川家康自身の領地も大幅に増やしました。これによって外様大名は豊臣家を助けようとしても大坂まで遠くて辿り着くのが困難な上に、間には徳川家関係の大名がいて妨害されるという状況になりました。

 

大名の領地を上手く配置した後に、徳川家は江戸城駿府城名古屋城などの自分達の城を外様大名に作らせます。外様大名は自分の領地の大きさに応じた人員を派遣して城作りに参加しました。これには多くの費用がかかり、外様大名は財政難に陥りました。結果的に外様大名の力は弱まっていき、徳川家との差は広がっていきました。これによって、徳川家に不満を持っても兵を挙げることは困難になりました。相対的に力の差は広がったので、もし徳川家に逆らおうと思っても多くの外様大名が結託する必要があります(上記の関ヶ原の戦いの後の領地分配の時点で結託しなければ勝てないように思えますが)。しかし、結託しようと外様大名たちが連絡を取ろうとしても近くにいる徳川家の譜代大名が目を光らせています。首尾よく協力関係ができて軍備を整え始めても、すぐさま江戸に連絡が行って徳川家もしっかり準備をすることができます。そもそも強大な力を持つ徳川家には勝ち目が少ないので、複数の外様大名が同時に反旗を翻すという条件は現実的に考えると実現できません。勝てる可能性が低い戦いに全員が最後まで参加するとは思えないからです。

 

1609〜1612年の名古屋城の城普請に参加していた豊臣家恩顧の福島正則が「江戸城ならともかく、なんで息子の城の普請までしなきゃならないんだ」と愚痴ったところ、同じく豊臣家恩顧の加藤清正が「文句があるなら国に帰って兵でも挙げろ」「そんなこと言ってないで、さっさと終わらせよう」と言ったそうです。この頃には徳川家には逆らえないという認識があったのだと思います。最も豊臣家が頼りにしていた加藤清正は「大阪城が落とされるようなことがあれば、(豊臣)秀頼様を(自分の領地の)熊本に落ち延びさせて一戦交える」と言ったとされます。徳川家が豊臣家を滅ぼそうとしたときには徳川家に対抗する意思をはっきり持っていた訳ですが、1611年に加藤清正は亡くなっています。豊臣秀吉が亡くなった1598年から時間が経ち、豊臣秀吉自身に取り立てられた大名も年老いたり亡くなったりして、豊臣家のために命を捨てても家を捨てても戦うという大名は次第に減っていき、徳川家の時代だという雰囲気になった面もあるかと思います。豊臣秀吉も元々は織田信長亡き後の織田家を踏み台にして天下を獲りました。現実主義の戦国大名達が徳川家に従うようになったのも当然かもしれません。

 

長くなりましたが、関ヶ原の戦いの後の領地分配によって徳川家に逆らいにくい状況を作り、江戸城などの城普請で徳川家と外様大名の力の差を広げた、さらに時間の経過によって外様大名の気持ちは豊臣家から離れていった、ということでした。初めの問題提起「どこで豊臣家と徳川家の力が逆転したんだろう?」については、関ヶ原の戦いの後の領地分配の後には逆転していて、城普請によって力の差は広がったと言えると思います。力関係の逆転に関してはもう1つ根拠があって、それは1603年の徳川家康征夷大将軍就任です。征夷大将軍と言えば、武士の頭領です。豊臣秀頼ではなく徳川家康征夷大将軍になってもそれほど大きな混乱が無かったのは、この時点で徳川家の力が強大になっている証拠だと思います。豊臣秀頼がまだ幼いので一時的に筆頭家老の徳川家康が就任したと見れなくもないですが、1605年に徳川家康の息子の徳川秀忠征夷大将軍を引き継いだので徳川家の意図は明確になりました。

 

今までの話で起点となっているのは関ヶ原の戦いの後の領地分配です。今まで書いていなかったのですが、ここでは豊臣家の領地が減らされてます。豊臣家には直接的な領地と、諸大名に預けている領地がありました。豊臣家の直接的な領地を減らすことは勿論できませんが、西軍に属する諸大名の領地が減った影響で実質的な豊臣家の領地が減りました。領地分配の結果、豊臣家の領地は220万石から65万石に、徳川家康の領地は250万石から400万石になったと言われています。徳川家の領地は徳川家康の息子や家臣を含めるとさらに増えます。徳川家康の次男の結城秀康は67万石、四男の松平忠吉は52万石です(三男は秀忠です)。外様大名で最も領地が大きい前田利長は120万石です。単純に数字だけで考えると、豊臣家と徳川家の間で戦いになっても徳川家が勝ちそうです。

 

こうして見てみると、領地分配をした時点でかなり徳川家優勢に思えます。さらに時間を遡ると、領地分配を徳川家が主導できたのは豊臣家の筆頭家老だったことと関ヶ原の戦いで勝ったことに依ります。豊臣秀頼はまだ幼いので領地分配には関われません。そこで筆頭家老であり勝利者でもある徳川家康の登場です。豊臣家の家臣として残った、東軍に属する諸大名は徳川家康を支持していたはずです。そして、その諸大名には褒賞としてたくさんの領地を貰いました。勿論、領地分配に潜ませてある徳川家の意図に気づく大名もいたと思いますが、特に反対は起きませんでした。西軍の総大将で戦ってはいない毛利輝元は初め領地を減らさないという約束を徳川家康としていました(そして大坂城を引き払って自分の国に帰りました)が、結局反故にされて112万石から30万石に減らされています。それでも毛利輝元は泣き寝入りをしました。以上のことから、主である豊臣家に敵対して軍事的に攻撃するということはできないけど、豊臣家の中での指揮を振るうという範囲においてはかなり無理なこともできるくらい徳川家康は支持されていたように見えます。

 

では、徳川家康が豊臣家の家臣の中でそこまでの支持を得られたのは何故でしょうか。ここでさらに時間を遡って、1599年の前田利家の死去に注目します。豊臣秀吉の死後、豊臣家の中では前田利家徳川家康が二大勢力でした。また、関ヶ原の戦いの西軍の石田三成前田利家のお蔭で生きていられるという状況でした。石田三成は豊臣家が朝鮮に侵攻した際に、朝鮮に渡った大名の戦果について理不尽な報告をしたり、働き手を戦争に取られて年貢が納められない大名にお金を貸す商人を斡旋して富を得たりしたことで、戦場に赴いた大名達の反感を買っていました。そのようなことがあって、前田利家が亡くなったその日の晩に加藤清正福島正則ら7人の大名に襲撃されます。このとき、石田三成徳川家康の屋敷に逃げ込んで助けてもらいます。この事件で政敵である石田三成を助けたことで徳川家康の株が上がりました。前田利家の死去もあって、豊臣家の家臣の中での徳川家康の力は増しました。

 

そして、東北の上杉景勝に対して叛意ありと決めつけて豊臣家の名の下に討伐隊を率いて出陣します。大坂城から徳川家康が離れた隙に石田三成が挙兵して、戻ってきた徳川家康ら東軍と関ヶ原で戦い、敗れます。東軍で大きな兵力を持っていた福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長はいずれも前田利家の死後に石田三成を強襲した大名です。石田三成が憎くて徳川家康に好意的な大名達の存在によって関ヶ原の戦いに勝つことができ、その後の領地分配に繋がったと言えます。上杉景勝に嫌疑をかけたのは少し無理のある状況だった気もして豊臣家家臣の中で反発があったのではと思いますが(徳川家康が領地に帰って国の経営に専念するように助言したのに、帰国してすぐに上洛しろと言って、その指示を聞かないということで叛意ありと決めつけられました)、徳川家康に好意的な大名だけ付いてくればよかったのかもしれません。また、徳川家康の力がそれだけ大きなものになっていたと言えるかもしれません。

 

かなり長くなりましたがまとめますと、

 

豊臣秀吉の死後、前田利家徳川家康が二大勢力となっていたが、前田利家も亡くなり、徳川家康の力は大きなものになった。さらに、石田三成憎しの思いもあって徳川家康を支持する大名がいた。その大名の力もあって関ヶ原の戦いに勝利し、論功行賞と処罰によって領地分配を行って徳川家に逆らいにくい状況を作った。その後、城普請によって外様大名の力を削いで相対的な力の差を広げ、征夷大将軍を家康、次いで秀忠が就任することなどで時代の変化を明示し、徳川家にはどうやっても逆らえないとなったところで豊臣家を滅ぼした。

 

ということになります。「どこで豊臣家と徳川家の力が逆転したんだろう?」という問いの答えは「関ヶ原の戦いの後の領地分配のとき」だと思います。それまでの徳川家康は権力が大きくなっていったものの、あくまで豊臣家の筆頭家老という位置付けで、このときに豊臣家を滅ぼそうとしても他の諸大名が敵に回って失敗していたと思いますが、領地分配の後は徳川家には勝てないんじゃないかという状況になったと思います。領地分配で勝つのはかなり難しいとなって、城普請で絶対勝てないとなったというイメージを抱いています。そして、時間の経過による外様大名達の気持ちの変化も大きいと思います。

 

情報が後出しになった部分もあったり、時系列を逆にたどったりして分かりにくかったかもしれません。豊臣家の滅亡について自分なりに色々と理由を考えていきました。僕は豊臣秀吉が好きなので豊臣家には滅んで欲しくなかったのですが、途中で書きましたが豊臣秀吉織田家を踏み台にして天下を取ったんだよなぁと思いました。そう思うと、戦国武将達って主家に対してどれほどの忠誠心を持っていたのかなと疑問に思いました。外様大名達の気持ちの変化を考えたのはそこに起因しています。

 

最後に1つ取り上げておきたいことがあります。1611年の加藤清正の死の直前、徳川家康豊臣秀頼と二条城で会見を行い、和平を結ぼうとしています。豊臣家恩顧の加藤清正は豊臣家のためにと思い、この会見の成立に尽力しています。最終的に徳川家康は豊臣家を滅ぼす訳ですが、どうして和平のための会見を開いたのでしょうか。「主殺し」の汚名を着るのが嫌だったのでしょうか。会見は上手くいったのに、4年後にはかなり強引なやり方で豊臣家を怒らせて大坂冬の陣・夏の陣へと繋げていきます。第2代将軍の徳川秀忠関ヶ原の戦いのときに徳川家康と異なるルートを進んでいたのですが、不必要な戦闘を行ったせいで遅刻して関ヶ原の戦いに参加することができませんでした。そんな不甲斐ない息子を見て、ふと自分の死後に豊臣家を残すことに不安を覚えたのでしょうか。結果的に江戸幕府は260年続いたので、徳川家にとって豊臣家を滅ぼしたことはよかったことだったのかもしれません。

新聞を読むようになりました

これまで新聞はテレビ欄くらいしか見てませんでした。一番見ていた小学生のときでもテレビ欄の他に四コマ漫画と野球の結果を見ていたくらいです。テレビをあまり見なくなってからはテレビ欄も見なくなりました。ニュースはネットニュースを見ますし、新聞は量が多くて読むのにとても時間がかかると思っていたのでノータッチでした。

 

そんな僕だったのですが、ある日思い立って新聞を読んでみました。1面から見出しを見ながらめくっていきます。面白そうだなと思う記事があるとじっくり読みます。これぞという記事はスマホで写真を撮っておきます。ニュース的な記事よりも何かの特集記事が面白いです。学校教育のデジタル化の取り組みや最先端の科学研究の話題、社会の中の格差など。新聞は想像をはるかに超えて取り扱う内容が豊富です。読んでいると自分の視野が広がっていくような気になります。

 

他に投書欄も面白いです。色んな人の色んな意見が載っています。ここでも知らないことがたくさん出てきます。結構お年を召した方の投書が多いので、昔の話が出てくることもあります。家庭での経験談や職場での経験談、その職業ならではの見方が出たりも。僕の両親は高齢なので介護の話題も気になります。一方で、中学生や高校生、大学生の投書もあります。新聞に目を通す学生は少ないと思うのですが、投書する人までいるとは思わなかったです。皆さん、とてもしっかりと社会の問題を真剣に捉えています。「私たちが本当に望んでいるのは受け皿の政党ではなく、政策とビジョンに心から賛同し信頼できる政党だ」と大学生が書いていたのにはとても心打たれました。学生の投書は90%以上が女性なのが特徴的だなと思います。自分の経験に照らし合わせると、その年頃の男子って何も考えてないしなぁと思ってしまいます。

 

毎日、朝刊と夕刊に目を通すのが楽しい日々になりました。すっかり習慣付いています。隅から隅まで読んでいる人は稀で、気になった記事だけを読む人が多数派なようです。僕も後者なので新聞を読むのはそこまで時間泥棒ではないです。自分には無縁の物と思っていても、どこかで繋がりができることがあるんだなぁと思いました。