素人が考える豊臣家滅亡 〜どこで力関係が逆転したのか〜

隆慶一郎さんの歴史小説影武者徳川家康」の大坂夏の陣の部分を読んでいるときに「どうして豊臣家は滅亡したんだろう?」「どこで豊臣家と徳川家の力が逆転したんだろう?」と思いました。そしてそれを自分なりに考えてみました。予防線になるのですが、僕は高校の日本史の授業を受けたことすら無いのでしっかりとした基礎知識は持っていません。すべて本やネットで得た知識に基づいて書いています。「その話は史実と認定されてないよ」という箇所があるかもしれません。また、以下での「豊臣家の力」と「徳川家の力」は一方に味方する他の大名の力も加味したものになります。

 

初めに、豊臣秀吉が生きている間は豊臣家の力は徳川家よりも上なので、豊臣秀吉が亡くなったときからの主な出来事を列挙します。

 1598年  豊臣秀吉の死去

 1599年  前田利家の死去

 1600年  関ヶ原の戦い

 1600年〜 関ヶ原の戦いに関する論功行賞と処罰

 1603年  徳川家康征夷大将軍就任

 1603年〜 江戸城駿府城名古屋城などの城普請

 1605年  徳川秀忠征夷大将軍就任

 1615年  大坂冬の陣

 1616年  大坂夏の陣・豊臣家滅亡

最後の2つ、大坂冬の陣・夏の陣から見ますと、この時点では豊臣家を救うために戦おうという大名は皆無でした。この頃には徳川家の力は明らかに豊臣家よりも勝っています。豊臣家はたくさんの浪人を集めて単独で戦い、敗れました。

 

次に、どうして諸大名は豊臣家に味方しなかったのかを考えます。豊臣秀吉が生きていたときは諸大名は豊臣家に従っていて、その関係が続いていれば徳川家が豊臣家を倒すことはかなり困難です。なので、徳川家は豊臣家と諸大名の関係を引き離して、かつ徳川家の力を増大させようとします。関ヶ原の戦いの後の論功行賞と処罰は豊臣家の家臣の筆頭で勝利した徳川家康とその家臣、つまり、徳川家が主導して行われました。敗れた西軍に属する大名の領地を取り上げて、勝利した東軍に属する大名に分け与えたのですが、このときに徳川家にとっては敵になり得る外様大名は大幅に加増しつつ大坂から離れた場所に移動させました。主に中国地方や九州地方、北陸地方です。そして、監視役として徳川家譜代の大名を外様大名の近くに配置し、また東海道を中心に要所を家康の息子や譜代の大名で埋めました。さらに、徳川家康自身の領地も大幅に増やしました。これによって外様大名は豊臣家を助けようとしても大坂まで遠くて辿り着くのが困難な上に、間には徳川家関係の大名がいて妨害されるという状況になりました。

 

大名の領地を上手く配置した後に、徳川家は江戸城駿府城名古屋城などの自分達の城を外様大名に作らせます。外様大名は自分の領地の大きさに応じた人員を派遣して城作りに参加しました。これには多くの費用がかかり、外様大名は財政難に陥りました。結果的に外様大名の力は弱まっていき、徳川家との差は広がっていきました。これによって、徳川家に不満を持っても兵を挙げることは困難になりました。相対的に力の差は広がったので、もし徳川家に逆らおうと思っても多くの外様大名が結託する必要があります(上記の関ヶ原の戦いの後の領地分配の時点で結託しなければ勝てないように思えますが)。しかし、結託しようと外様大名たちが連絡を取ろうとしても近くにいる徳川家の譜代大名が目を光らせています。首尾よく協力関係ができて軍備を整え始めても、すぐさま江戸に連絡が行って徳川家もしっかり準備をすることができます。そもそも強大な力を持つ徳川家には勝ち目が少ないので、複数の外様大名が同時に反旗を翻すという条件は現実的に考えると実現できません。勝てる可能性が低い戦いに全員が最後まで参加するとは思えないからです。

 

1609〜1612年の名古屋城の城普請に参加していた豊臣家恩顧の福島正則が「江戸城ならともかく、なんで息子の城の普請までしなきゃならないんだ」と愚痴ったところ、同じく豊臣家恩顧の加藤清正が「文句があるなら国に帰って兵でも挙げろ」「そんなこと言ってないで、さっさと終わらせよう」と言ったそうです。この頃には徳川家には逆らえないという認識があったのだと思います。最も豊臣家が頼りにしていた加藤清正は「大阪城が落とされるようなことがあれば、(豊臣)秀頼様を(自分の領地の)熊本に落ち延びさせて一戦交える」と言ったとされます。徳川家が豊臣家を滅ぼそうとしたときには徳川家に対抗する意思をはっきり持っていた訳ですが、1611年に加藤清正は亡くなっています。豊臣秀吉が亡くなった1598年から時間が経ち、豊臣秀吉自身に取り立てられた大名も年老いたり亡くなったりして、豊臣家のために命を捨てても家を捨てても戦うという大名は次第に減っていき、徳川家の時代だという雰囲気になった面もあるかと思います。豊臣秀吉も元々は織田信長亡き後の織田家を踏み台にして天下を獲りました。現実主義の戦国大名達が徳川家に従うようになったのも当然かもしれません。

 

長くなりましたが、関ヶ原の戦いの後の領地分配によって徳川家に逆らいにくい状況を作り、江戸城などの城普請で徳川家と外様大名の力の差を広げた、さらに時間の経過によって外様大名の気持ちは豊臣家から離れていった、ということでした。初めの問題提起「どこで豊臣家と徳川家の力が逆転したんだろう?」については、関ヶ原の戦いの後の領地分配の後には逆転していて、城普請によって力の差は広がったと言えると思います。力関係の逆転に関してはもう1つ根拠があって、それは1603年の徳川家康征夷大将軍就任です。征夷大将軍と言えば、武士の頭領です。豊臣秀頼ではなく徳川家康征夷大将軍になってもそれほど大きな混乱が無かったのは、この時点で徳川家の力が強大になっている証拠だと思います。豊臣秀頼がまだ幼いので一時的に筆頭家老の徳川家康が就任したと見れなくもないですが、1605年に徳川家康の息子の徳川秀忠征夷大将軍を引き継いだので徳川家の意図は明確になりました。

 

今までの話で起点となっているのは関ヶ原の戦いの後の領地分配です。今まで書いていなかったのですが、ここでは豊臣家の領地が減らされてます。豊臣家には直接的な領地と、諸大名に預けている領地がありました。豊臣家の直接的な領地を減らすことは勿論できませんが、西軍に属する諸大名の領地が減った影響で実質的な豊臣家の領地が減りました。領地分配の結果、豊臣家の領地は220万石から65万石に、徳川家康の領地は250万石から400万石になったと言われています。徳川家の領地は徳川家康の息子や家臣を含めるとさらに増えます。徳川家康の次男の結城秀康は67万石、四男の松平忠吉は52万石です(三男は秀忠です)。外様大名で最も領地が大きい前田利長は120万石です。単純に数字だけで考えると、豊臣家と徳川家の間で戦いになっても徳川家が勝ちそうです。

 

こうして見てみると、領地分配をした時点でかなり徳川家優勢に思えます。さらに時間を遡ると、領地分配を徳川家が主導できたのは豊臣家の筆頭家老だったことと関ヶ原の戦いで勝ったことに依ります。豊臣秀頼はまだ幼いので領地分配には関われません。そこで筆頭家老であり勝利者でもある徳川家康の登場です。豊臣家の家臣として残った、東軍に属する諸大名は徳川家康を支持していたはずです。そして、その諸大名には褒賞としてたくさんの領地を貰いました。勿論、領地分配に潜ませてある徳川家の意図に気づく大名もいたと思いますが、特に反対は起きませんでした。西軍の総大将で戦ってはいない毛利輝元は初め領地を減らさないという約束を徳川家康としていました(そして大坂城を引き払って自分の国に帰りました)が、結局反故にされて112万石から30万石に減らされています。それでも毛利輝元は泣き寝入りをしました。以上のことから、主である豊臣家に敵対して軍事的に攻撃するということはできないけど、豊臣家の中での指揮を振るうという範囲においてはかなり無理なこともできるくらい徳川家康は支持されていたように見えます。

 

では、徳川家康が豊臣家の家臣の中でそこまでの支持を得られたのは何故でしょうか。ここでさらに時間を遡って、1599年の前田利家の死去に注目します。豊臣秀吉の死後、豊臣家の中では前田利家徳川家康が二大勢力でした。また、関ヶ原の戦いの西軍の石田三成前田利家のお蔭で生きていられるという状況でした。石田三成は豊臣家が朝鮮に侵攻した際に、朝鮮に渡った大名の戦果について理不尽な報告をしたり、働き手を戦争に取られて年貢が納められない大名にお金を貸す商人を斡旋して富を得たりしたことで、戦場に赴いた大名達の反感を買っていました。そのようなことがあって、前田利家が亡くなったその日の晩に加藤清正福島正則ら7人の大名に襲撃されます。このとき、石田三成徳川家康の屋敷に逃げ込んで助けてもらいます。この事件で政敵である石田三成を助けたことで徳川家康の株が上がりました。前田利家の死去もあって、豊臣家の家臣の中での徳川家康の力は増しました。

 

そして、東北の上杉景勝に対して叛意ありと決めつけて豊臣家の名の下に討伐隊を率いて出陣します。大坂城から徳川家康が離れた隙に石田三成が挙兵して、戻ってきた徳川家康ら東軍と関ヶ原で戦い、敗れます。東軍で大きな兵力を持っていた福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長はいずれも前田利家の死後に石田三成を強襲した大名です。石田三成が憎くて徳川家康に好意的な大名達の存在によって関ヶ原の戦いに勝つことができ、その後の領地分配に繋がったと言えます。上杉景勝に嫌疑をかけたのは少し無理のある状況だった気もして豊臣家家臣の中で反発があったのではと思いますが(徳川家康が領地に帰って国の経営に専念するように助言したのに、帰国してすぐに上洛しろと言って、その指示を聞かないということで叛意ありと決めつけられました)、徳川家康に好意的な大名だけ付いてくればよかったのかもしれません。また、徳川家康の力がそれだけ大きなものになっていたと言えるかもしれません。

 

かなり長くなりましたがまとめますと、

 

豊臣秀吉の死後、前田利家徳川家康が二大勢力となっていたが、前田利家も亡くなり、徳川家康の力は大きなものになった。さらに、石田三成憎しの思いもあって徳川家康を支持する大名がいた。その大名の力もあって関ヶ原の戦いに勝利し、論功行賞と処罰によって領地分配を行って徳川家に逆らいにくい状況を作った。その後、城普請によって外様大名の力を削いで相対的な力の差を広げ、征夷大将軍を家康、次いで秀忠が就任することなどで時代の変化を明示し、徳川家にはどうやっても逆らえないとなったところで豊臣家を滅ぼした。

 

ということになります。「どこで豊臣家と徳川家の力が逆転したんだろう?」という問いの答えは「関ヶ原の戦いの後の領地分配のとき」だと思います。それまでの徳川家康は権力が大きくなっていったものの、あくまで豊臣家の筆頭家老という位置付けで、このときに豊臣家を滅ぼそうとしても他の諸大名が敵に回って失敗していたと思いますが、領地分配の後は徳川家には勝てないんじゃないかという状況になったと思います。領地分配で勝つのはかなり難しいとなって、城普請で絶対勝てないとなったというイメージを抱いています。そして、時間の経過による外様大名達の気持ちの変化も大きいと思います。

 

情報が後出しになった部分もあったり、時系列を逆にたどったりして分かりにくかったかもしれません。豊臣家の滅亡について自分なりに色々と理由を考えていきました。僕は豊臣秀吉が好きなので豊臣家には滅んで欲しくなかったのですが、途中で書きましたが豊臣秀吉織田家を踏み台にして天下を取ったんだよなぁと思いました。そう思うと、戦国武将達って主家に対してどれほどの忠誠心を持っていたのかなと疑問に思いました。外様大名達の気持ちの変化を考えたのはそこに起因しています。

 

最後に1つ取り上げておきたいことがあります。1611年の加藤清正の死の直前、徳川家康豊臣秀頼と二条城で会見を行い、和平を結ぼうとしています。豊臣家恩顧の加藤清正は豊臣家のためにと思い、この会見の成立に尽力しています。最終的に徳川家康は豊臣家を滅ぼす訳ですが、どうして和平のための会見を開いたのでしょうか。「主殺し」の汚名を着るのが嫌だったのでしょうか。会見は上手くいったのに、4年後にはかなり強引なやり方で豊臣家を怒らせて大坂冬の陣・夏の陣へと繋げていきます。第2代将軍の徳川秀忠関ヶ原の戦いのときに徳川家康と異なるルートを進んでいたのですが、不必要な戦闘を行ったせいで遅刻して関ヶ原の戦いに参加することができませんでした。そんな不甲斐ない息子を見て、ふと自分の死後に豊臣家を残すことに不安を覚えたのでしょうか。結果的に江戸幕府は260年続いたので、徳川家にとって豊臣家を滅ぼしたことはよかったことだったのかもしれません。